あの歌が聞こえる。 まどろみの中、その優しい歌声に悠人〈ゆうと〉がゆっくりと目を開けた。「小百合〈さゆり〉……」 歌声の主は小百合の一人娘、小鳥〈ことり〉。(小百合そっくりだな……) 小鳥は台所で朝食の準備をしていた。 そういえば昨日から、小鳥が家に来てるんだったな……そのせいか。あんな夢を見たのは……悠人の頭が徐々に覚醒してくる。 * * * ゆっくりと起き上がり、机の上の煙草に手をやり、火をつけた。その気配に気付いた小鳥が、勢いよく部屋に入り悠人に抱きついた。「おはよー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん!」「わたったったったっ……待て待て小鳥、火、火っ……」「だめだよ悠兄ちゃん、寝起きにいきなり煙草吸ったりしたら。寝起きにはまず水分摂らないと。癌になる確率が上がるんだからね」 どこでそんな知識を仕入れてるんだか……大体癌のことを言い出したら、煙草そのものが駄目だろうに。 そう思いながら煙草をもみ消す。「あーっ、そうだった!」 いきなり小鳥が大声を上げた。「なんだどうした」「悠兄ちゃん、なんで隣の部屋に移ってたのよ。起きたら隣に悠兄ちゃんがいないから、寂しくて泣きそうになったんだからね。朝から半泣きで探し回って、最っ低ーな目覚めだったんだから。プンプン」「……プンプンって擬音を口にするやつ、初めて見たぞ……まぁあれだ、小鳥。寂しいかもしれないけど、同じ屋根の下なんだから我慢してくれ。いくら小鳥でも、流石に18の娘と一緒には寝れんよ」「結婚するんだからいいじゃない。それに歳も18だし、条令もクリアしてる訳なんだから」「条令ってお前、何の話を……この話は長くなりそうだな。朝ごはん作ってくれたんだよな、食べようか」 話をかわされ、少し不満気な表情を浮かべた小鳥だったが、「だね。まずは食べよっか」 そう言って立ち上がった。 * * * 顔を洗い、歯を磨いて椅子に座る。小鳥が手を合わせているので悠人もそれにならった。「いっただっきまーす」 なんで朝からこんなに元気なんだ。こんなところまで母親ゆずりなのか……苦笑しながら悠人が食パンを口にする。「そうだ悠兄ちゃん。悠兄ちゃんには朝から言うことてんこ盛りだよ」「なんだ、何でも言ってみろ」「威張ってもダメ。悠兄ちゃん、冷蔵庫の中に物なさすぎ。コーラとお茶だけってどう言うこと
「さ……流石に買いすぎだろ……」 ここに越してきた時でも、ここまで買い物をした記憶はないぞ。 そう思いながら悠人が鍵を開けようとした時、ドアの隙間に挿してある一枚の紙に気付いた。 宅配便の不在表で、家に入り連絡すると、15分ほどして業者が荷物を持ってきた。荷物はダンボール二箱と、細長く厳重に梱包された筒状の箱だった。 ダンボールには小鳥の服、その他もろもろの日用品が入っていた。「女子にしては少ない荷物だな。まぁ3ヶ月だからこんな物か……で、これは何なんだ?」「ふっふーん、これはね」 そう言って小鳥が筒状の梱包を外していくと、中から三脚と望遠鏡が出てきた。「結構高そうなやつだな」「これは小鳥がバイトしまくって買った宝物。悠兄ちゃんの天使の次に大切なものなんだ。悠兄ちゃんと一緒に星が見たかったから、これは持っていこうって決めてたんだ。でもね、そのつもりだったんだけど…… ここって星、ほとんど見えないんだね」「昔はもう少し見えてたんだけどな、街が明るくなりすぎたから。過疎ってきてるとはいえ、これでも都会なんだよな。 ま、3ヶ月ここにいるんだから、そのうち山にでも連れていってやるよ」「楽しみにしてるね。でも悠兄ちゃん、春先でこんなんだったら、夏なんて見える星ないんじゃない?」「間違いなく見えるのは、月ぐらいかな」 その言葉に反応した小鳥が、「月って言えば……」 そう言ってダンボールの中に手を入れ、冊子のような物を取り出した。「じゃーん!」「だから……じゃーんなんて擬音、リアルで口にするやつはいないぞ……ってこれ」 それは月の土地権利証書だった。「お前、月の土地持ってたのか」「悠兄ちゃん、ここここ。ここ見てよ」 小鳥が指差すそこは権利者の欄だった。そこには悠人の名前が記載されていた。「俺の土地なのか?」「悠兄ちゃん、小鳥に約束してくれたでしょ? 大きくなったら小鳥と結婚して、月で一緒に暮らしてあげるって。だから小鳥、未来の旦那様の名義で買ったんだ」「なんとまぁ、5歳の時の約束をしっかり覚えていたとはな。ちょっと待ってろ」 悠人は笑って立ち上がり、洋間に入っていった。ごそごそと音がしてしばらくすると、小鳥が手にしているのと同じものを持ってきた。「ほら」「え……?」 悠人が開いたその権利証書には、小鳥の名前が記載さ
悠人〈ゆうと〉と川嶋弥生〈かわしま・やよい〉の出会いは、二年ほど前になる。 大学入学を機に悠人の隣室、702号室に越してきた弥生。 入居の挨拶で悠人の家に来た時、焼き物で有名な滋賀県の信楽〈しがらき〉から越してきたことを弥生は話していた。 眼鏡の似合うポニーテールの女の子。どこか垢抜けていない、素朴で純粋そうな子、と言うのが悠人の印象だった。 隣同士なので顔を合わせることも少なくなかったが、互いに挨拶をする程度で、それ以上の関係になるとはお互い思ってもいなかった。 * * * それから一年近くたった冬のある日。 悠人が仕事から帰ってくると、玄関前で鞄の中をひっくり返し、途方に暮れている弥生を発見した。「……」 こんな鉄板イベント、実際見ることになるとは。 鼻の頭を真っ赤にし、弥生が溜息をもらす。相当長い時間、そうしているように見受けられた。 白いコートタイプのダウンジャケットの前を開け、紫のハイネックが見え隠れするそこから、大きな胸であることが見てとれた。「あの……こんばんは、えーっと……お隣さん?」 悠人は弥生の名前を覚えていなかった。 人付き合いに無頓着な悠人にとって、他人の名前を覚える行為は特に必要ではなかったからだ。会話をすることもなく、「お隣さん」で十分だったのだ。 悠人の声に顔を上げた弥生。その瞳は潤んでいた。「お隣さんって……酷いじゃないですか工藤さん。一年も住んでるのに私の名前、覚えてくれてないんですか? 私は弥生、川嶋弥生です」(ええっ? そっち? 引っ掛かるとこ、そっち?) そう思いつつ、悠人が頭を掻きながら言った。「あ、いやすいません、川嶋さん……じゃなしに、こんな寒い中、こんなところで何してるんですか」「あ、そうでしたそうでした。実は鍵を無くしてしまったみたいで、家に入れなくて困ってたんです。くすん」(……くすんって擬音を口にするやつが、リアルに生息していたとは……)「スペアの鍵は?」「家の中でお休み中です」「それはそれは、意味のないスペアで」「ううっ、酷いお言葉……」「いつからこうしてるんですか?」「一時間ほど……」「凍死しますよこんな日に。お友達の家とか、助けてもらえるところはないんですか?」「友達の家も結構遠くて……というかもう無理、動けないです。携帯の充電もきれてま
「BMB……?」「はい、サークル名です。ボーイ・ミーツ・ボーイの略でBMB。そこで絵師をしております。窯本〈かまもと〉やおいはペンネームであります」「ボーイ・ミーツ・ボーイ、と言うことは……」「はい、BLであります! びしっ!」 にんまりと笑った弥生〈やよい〉が敬礼する。「……びしって擬音、普通は口にしないと思うけど」「私は中学の頃から、ヲタ道を日々研鑽してまいりました」(いやいや、世間にヲタ道なんて言葉はないから)「そして高校でBMBと出会い、その本拠地のある大学に入った次第であります。 我々の目的はただひとつ、いつかこのヲタ道を、混迷の闇をさまよう日本再生の柱にすること。BMBはその為に日々戦う、武闘派集団なのであります。びしっ!」 弥生のマシンガントークに、悠人〈ゆうと〉が呆気にとられる。「そして思うに悠人さん、あなたにはヲタとしての血が脈々と流れているとお見受けいたしました。ゴッドゴーレムの自作とは、かなりレベルの高いヲタ値……言わばそう、あなたこそヲタ道の純血派なのです!」「じゅ……純血派?」「そうです! 悠人さんは遡ること数十年、ヲタたちが市民権を得ておらず、社会から孤立し、なおかつ活動出来る場が少ない草創の時代よりヲタ道を歩まれてきた、正に勇者様。あなたのような勇者様がいなければ、今私たちがこうして闊歩〈かっぽ〉している世界は存在しなかったのであります!」「まぁ確かに……俺がこの世界に入った頃には、同人誌なんてものもほとんどなかったし、ヲタクの凶悪事件なんかもあったりしたからね。結構冷たい目で見られていたよ」「だしょだしょ!」「いや、ここは普通に『でしょ』でいいから」「悠人さんの世代に比べれば生ぬるいですが、これまで私も、それなりに疎外感なるものを感じながら生きてまいりました。 その孤高の戦いの中、いつか出会えるであろう真の勇者様をずっと心に思い描いていたのです。それがまさか、こんな近くにおられたとは……これは運命です! 私は今日、この日の為に
日曜の昼下がり。 小鳥〈ことり〉がベランダで、歌を口ずさみながら洗濯物を干していた。 いつも室内で干している悠人〈ゆうと〉にとって、ベランダが洗濯物でうまっていくのは新鮮な眺めだった。気持ちのいい風が入り込む中、悠人は煙草を吸いながら小鳥が干すのを眺めていた。 * * *「悠兄〈ゆうにい〉ちゃんって、いつも同じ服を着てるよね。どうして?」 昨日の夜、小鳥に聞かれたことを思い出す。「ああこれな。俺は下着も服も靴も、同じものしか持ってないんだ」「……どういうこと?」「小百合〈さゆり〉から聞いてないのか? 色んな服があったら着る時に悩むだろ? そんなことで悩むのがバカらしいから、全部同じにしてるんだ。年に一回、下着も服もセットにしてまとめ買い。合理的だろ?」「うーん、そんな人に会ったの初めてだから分からないけど……でもね、その日の気分で服を変えたりするのって楽しくない? 着る服で気分が変わることもあるし」「よく言われるんだけどな。なんかそう言うのって苦手と言うか、興味ないんだよな」「それに悠兄ちゃん、真っ黒だし」「だな」「ティーシャツも黒、ジーパンも黒、パンツも靴下もワイシャツも靴も、ジャンバーまで全部黒。どこかの危ない人みたい」「落ち着くんだよな、黒って」「じゃあ小鳥が今度、悠兄ちゃんに服をプレゼントしてあげるよ。小鳥が買ったら悠兄ちゃん、着てくれる?」「うーん……会社の子にも同じこと言われたけど、その時も結局返事出来なかったんだよな。着るかどうかの自信がないから」「じゃあ悠兄ちゃん、気に入らなければ着なくていいってことなら、買ってもいい?」「いやまぁ……買ってくれるのは嬉しいけど、でも俺にプレゼントしても甲斐がないぞ。自分の服を買った方がいいと思うけど」「大丈夫だよ。小鳥にはお母さんからもらったあらゆるデータがあるから。悠兄ちゃんが着たくなる服、探してきてあげる」「……お前は一体、小百合から何を吹き込まれてるん
「なるほど……」 紅茶をひと口飲んだ弥生〈やよい〉が、大きくうなずいた。「悠人〈ゆうと〉さんの幼馴染の娘……えへっ、えへへへへっ」「……なんか知らんが、また変な妄想をしているようだな」「いえいえ悠人さん。私はただ、新しいヲタの属性が生まれた瞬間に立ち会えたと喜んでる次第でして。これまで幼馴染や妹、委員長や後輩萌えは多く語られてきましたが、なるほどなるほど……確かにヲタも30代40代が増えてきて、妄想にも限界が生じてきた昨今……その中での幼馴染の娘属性とはあまりにも必然でしかも斬新……」 目が爛々と輝いていく。「しかも幼馴染鉄板の体育会系ボディ! スレンダーかつ微乳、我々萌豚の妄想が具現化したようなキャラは正に至福! えへっ、えへへへへっ」 舐めまわすようなその視線に、小鳥〈ことり〉が思わず胸を隠した。「弥生ちゃん、おっさんの目になってるぞ」「ぐへへへへっ、お嬢ちゃん可愛いねぇ」「……悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、弥生さんって」「ああ、悪い人じゃない。いい人なんだ、いい人なんだけど……何と言うかその、確か変態淑女とか自分で言ってたな。人類は皆ヘンタイだから恥ずかしくない、とかなんとか……自分に正直であり続けたら、こうなってしまったらしい」「ひゃっ!」 小鳥が叫ぶ。いつの間にか弥生が近付き、太腿を撫でていた。「おおっ、この引き締まった太腿……この太腿は陸上部部長クラスとお見受けしました。触ってもいいですか小鳥さん。て、もう触ってますけど」「いい加減にしろ」 そう言って、悠人が再び弥生の額に人差し指を突きつけた。「びっくりした……でも弥生さん、当たってますよ。私中学の時、陸上部の部長でした」「種目は短距離」「そう、短距離でした」「やはり……どこまでも我々を裏切らないお方。舐めてもいいっすか」 ゴンッ! と弥生の頭に衝撃が走る。悠人のゲンコツだった。 小鳥は赤面しながら笑った。「悠兄ちゃ
翌朝。 悠人〈ゆうと〉が布団をたたんでいると、小鳥〈ことり〉が部屋に勢いよく入ってきた。「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、なんで普通に起きてるのよ!」「なんだなんだ、朝っぱらから」「今日から仕事だから、目覚まし止めて二度寝する悠兄ちゃんを見たかったのに! 布団をはだけて『起きろーっ、早く起きないと遅刻するぞー』ってするのが夢だったのに!」「いやだから、朝からそんな幼馴染ネタはいいから……な」 * * * 朝食を済ませると、ジーパンにパーカー、ジャケットの軽装で小鳥が玄関に向かった。「また夜に会おうね。いってきまーす」 それから30分ほどして悠人も部屋を出ると、まずコンビニに向かった。「あら悠人くん、おはよう」「おばちゃん、今日からその……小鳥がお世話になります」「まかしといて。久しぶりに若い子が入ってくれて、私も喜んでるんだから。それより悠人くん、小鳥ちゃんから聞いたわよ。あの子、悠人くんのお嫁さんになるんだって?」「あ……いやそれは」「ちょっと歳が離れてるけど、まあでも20ぐらい最近じゃ普通だし、気にすることなんかないわね」「いやだから、その……」「でもおばちゃん、びっくりしたわよ。悠人くんのお嫁さんは、てっきり弥生〈やよい〉ちゃんだと思ってたから」「とにかく」 悠人が赤面し話を切った。「今日から小鳥のこと、よろしくお願いします」 そう言うと悠人は、栄養ドリンクを一本買って逃げるように店を出た。 自転車を走らせ駅に近付くと、駅から出てくるサラリーマンにちらしを配っている小鳥が目に入った。(ちらし配りか。頑張れよ、小鳥) * * *「おはようございます、悠人さん」 悠人が事務所に入ると、机を拭いていた菜々美〈ななみ〉が笑顔で挨拶してきた。「悠人さん、ジェルイヴ見ました?」 *
「悠人さん、ジェルイヴ見ました?」 未だに抵抗のある略語で菜々美〈ななみ〉が聞く。 初めて悠人〈ゆうと〉に教えてもらったアニメ、ジェルイヴも今は2期に入っている。「すごかったですよね、急展開で。イヴが堕天使のプリンセスだったなんて」 ん? デジャヴ? 昨日小鳥〈ことり〉と話した時のことを思い出し、悠人が苦笑した。 いつの間にか菜々美、弥生〈やよい〉、そして小鳥。三人と同じアニメの話で盛り上がるようになっている。 しばらくイヴについて話しているうちに、他の作業員たちも出勤してきた。「菜々美ちゃん、今日も朝から頑張っとるなぁ」 冷やかす作業員たち。最初の頃は顔を赤くして照れていた菜々美だったが、馴れとは不思議なもので、いつの間にか、「毎日頑張ってるのに本当、悠人さん冷たいんですよ。なんとか言ってくださいよ細田さん」 そう笑いながら切り返すようになっていた。 * * * 作業時間が近付き、悠人が今日の予定に目を通していると、菜々美が聞いてきた。「あの、それで……悠人さん、今日のお昼どうされますか? 私今日、少し多めに作ってきたんです。よかったら一緒に食べてもらいたいんですけど」「ごめん、昼はちょっと出かけるんだ。20分ぐらいで戻ってくると思うけど」「何かあるんですか?」「実は週末から家に居候が住みだしてね。そいつが今日からコンビニでバイトをしてるから、ちょっと様子を見に行こうと思ってるんだ」「居候って、お友達ですか?」「友達って言えば、そうなるのかな。まぁ簡単に言えば、幼馴染の娘だよ」「幼馴染の娘さん……って、バイトしてるってことは子供じゃないですよね!」「うん、18歳」「えええっ!」 * * * 昼休み。 気が動転している菜々美に後で説明すると言い残して、悠人が自転車でコンビニに向かった。 こんな風に、他人を気
地下から上がると、そこは既に本通りだった。 悠人〈ゆうと〉の知る、日本橋最短ルート。少し歩くと、すぐにフィギュアの店やDVDショップが目に入った。 生粋の電気店やアダルト専門DVD店なども立ち並ぶが、悠人と小鳥〈ことり〉の目には入らなかった。見えているのはアニメショップ、それだけだった。 まずは腹ごしらえにいつもの店と、悠人が入ったのは牛丼屋だった。 時間短縮と経費削減にはここが一番。そう言った悠人に小鳥も同意だった。早々に食べ終わると、いよいよショップ巡りが始まった。 入口いっぱいに陳列された食玩の店に入ると、そこはうなぎの寝床のように真っ直ぐ縦長になっていた。その店の中には入口同様、所狭しと食玩が並べられている。 数百はある食玩に圧倒されながらも、小鳥はお目当てのものがないかと目を輝かせながら物色を続けた。 大型店舗では雑誌や漫画、ポスターやキャラクターグッズに興奮し、中々出ようとはしなかった。こういった店に初めて入った小鳥にとって、ここは宝の山に他ならなかった。 裏通りに入っても、小鳥の興奮は収まらない。 入っては物色を続ける中、とあるフィギュア専門店をロックオン、中に入ろうとした。その小鳥の腕をつかみ、悠人が首を振る。「ここはやめておこう」「どうして? フィギュアのお店だよね。ちょっと覗いてくるね」 そう言って、小鳥が一人で入っていく。悠人は苦笑し、店の前で煙草を吸いだした。 そしてしばらくすると、小鳥が血相を変えて店から出てきた。「おかえり」「な、な、何? このお店」「だから言っただろ。ここは男の夢と欲望のつまった店なんだ」「でもあのフィギュア、胸も、それからその……全部見えてて、な、なんか……」 見る見る内に、小鳥の顔が赤くなっていく。悠人は笑いながら、「喉、渇いただろ。なんか飲むか」 そう言って歩き出した。 自動販売
「……」 目を覚ました悠人〈ゆうと〉が、またしても違和感を感じた。 違和感の原因である何かが、体にまとわりついてくる。「うぎゃあああああああっ!」 沙耶〈さや〉だった。「ななな、なんでお前がいるんだ!」「どうしたの!」 悠人の叫びに、小鳥〈ことり〉が部屋に駆け込んできた。「……サーヤ……?」「ん……ふにゅ……」「こ、小鳥……助けて……」「……」 まどろみの中、またしても沙耶の顔が近付いてくる。小さな口を開け、悠人の首筋を頬張る。「はむっ……」「ダメええええええっ!」 叫ぶと同時に、小鳥が沙耶の体を引き離す。そしてすかさず、自分の両足を悠人の首に巻きつけた。 関節技、「首四の字固め」の完成。「ぐががが……」 悠人が悶絶しながらタップする。「朝からサーヤに抱きつかれて、しかもいやらしそうに喜んで……この、このっ! 私というものがありながら!」「ギブ……ギブだ小鳥……」 小鳥が足をほどくと、悠人が首を押さえて咳き込んだ。「……お、お前……朝の目覚めにこれはきついぞ」「だよねー。悠兄〈ゆうにい〉ちゃんは、サーヤのキスの方がいいんだもんねー」「当たり前のように冤罪を吹っ掛けるな」「ふっ……」 沙耶の肩が震える。「ふふふっ」「サーヤ?」「いやすまない。面白い
陽が落ちてきた頃。 この日の締めとして、二人は観覧車に乗った。 ゆっくりと夜景が動いていく。狭い空間で優しいBGMが流れる中、小百合〈さゆり〉が口を開いた。「悠人〈ゆうと〉。今日までよく頑張ったね」「それはこっちのセリフだ。小百合、ありがとな」「悠人なら大丈夫。絶対合格するよ」「だといいんだけど……ははっ」「またぁ。すぐそうやって不安そうな顔をする」「いや……楽しかったから忘れてたけど、俺って明日、受験なんだよな」「もぉー、今からそんな弱気でどうすんのよ」「だな。今更じたばたしても仕方ないよな」「絶対大丈夫だから。自信持ってよね」「でも……今日で終わりなんだな、こんな時間も」「あ……」 悠人の言葉に、小百合がはっとした。 そうだ。合格にしても不合格にしても、悠人の家で一緒に過ごした生活は、今日で終わりなんだ。 そう思うと急に、小百合の中に寂しさが込み上げてきた。「そう、だよね……こうして悠人といるのも、今日が最後なんだよね……」 小百合の様子に悠人は、しまった、今する話題じゃなかった、そう猛烈に後悔した。 小百合はうつむきながら、懸命に笑みを浮かべようとする。「ダメダメ、今日はリフレッシュの一日なんだから。しめっぽくするのはやめよう!」「……すまん、悪かった」「いいっていいって。この話はこれで終わり。それより悠人、隣に行ってもいい? 渡したいものがあるの」「あ、ああ、いいよ」 悠人の隣に座ると、小百合はバッグからラッピングされた包みを出した。「今日まで小百合先生によくついてきました。これはそのご褒美です。ちょっと早いけどバレンタインチョコ、受け取ってください」
「……小百合〈さゆり〉?」 声に振り向くと、公園のベンチに座る悠人〈ゆうと〉がいた。「なんか、久しぶりだね」 小百合がそう言って、悠人の隣に座る。「だな。高校までは毎日一緒だったから、俺も久しぶりな気がするよ」「一週間も経ってないのにね」 小百合が小さく笑う。「大学はどうだ?」「うん、それなりに楽しいよ。友達ともよく遊びに行くし、サークルのみんなも優しいし」「そっか。まぁ楽しくやってるならいいさ」「悠人は?」「俺か? 俺はいつも通りだよ」「どうせ一人で講義受けて、終わったらまっすぐ帰ってるんでしょ。一人で」「今の大学には、お節介な保護者もいないしな」「悠人くん。それはもしかして、私のことを言ってるのかね」 拳を握り、小百合がにっこり笑う。「はははっ」「ふふっ」 * * *「でもほんと、久しぶりだよな。こんな感じで喋るのも」「別々の大学で生活サイクルも変わって、行き違いばっかだからね」「最初の頃はお前も、夜になったら俺の部屋に来てたんだけどな」「それってちょっと、いやらしくない?」「全然。子供の時は風呂も一緒だったんだ。今更だろ」「それはそうだけど」「そんなこと言ったらお前、去年の今頃、毎晩俺の家に泊まってたじゃないか」「あれはだって……悠人の家庭教師してたからじゃない」「そうなんだけどな。その節は本当、お世話になりました」 悠人が大袈裟に頭を下げる。「いえいえとんでもない。出来の悪い生徒だったけど、なんとか合格させることも出来たし、先生としては満足でしたよ」「お前とは頭の出来が違いすぎるからな。お前は推薦、俺はランクをひとつ下げてもぎりぎりだったからな」「でもあの
「なんなんだこの部屋は……」 * * * 隣なので、基本的に悠人〈ゆうと〉の家と同じ間取りのはずだった。 しかし足を踏み入れた沙耶〈さや〉の部屋は、奥の二部屋の壁がぶち抜かれ、14畳の洋間になっていた。台所も、最新式のシステムキッチンになっている。「工事してるのは知ってたけど、お前だったのか」「ああ。流石に死ぬまでとは言わぬが、当分ここが拠点になるのだ。住みやすいよう、変えさせてもらった」「これだけのリフォームをわずか数日で……一体いくらかかったんだよ」「すいません、これはどちらに?」「ああ、一番奥に頼む」「よかったね悠兄〈ゆうにい〉ちゃん。これでずっと、弥生〈やよい〉さんともサーヤとも一緒だよ」「いや、そうなんだけどな……」「遊兎〈ゆうと〉、仕事が出来たぞ。私のベッドだ、組み立ててくれ」「分かった分かった」 * * *「こりゃまた、規格外のベッドだな」 小柄の沙耶が何人寝れるのか、そのベッドはキングサイズの域を超えていた。しかも屋根がついていて、高価そうなレースがかかっている。「……どこの異世界の王女様だよ」「何を言う。これでも実家のベッドに比べれば、ランクはかなり落ちるのだぞ。この部屋には大きすぎるからな」「……お嬢様ってのは、本当なんだな」「最初からそう言っておるだろうが」 天井には小型のシャンデリア、大画面液晶テレビにレコーダー、最新のパソコンにデスク、リクライニングチェアーには両サイドにスピーカー内臓。 フローリングには雲のような絨毯。カーテンも、レースだけで何万するのだろう? そう思ってしまうほど高価なものだった。「なあ沙耶。ここまで金があるのに、なんでこんな過疎マンションに住むことにしたん
朝。 何かがまとわりついている感覚に、悠人〈ゆうと〉が目覚めた。「げっ……」 ネグリジェ姿の沙耶〈さや〉が布団に潜り込み、悠人にしがみついていた。「また……お前か……」 沙耶を起こそうと体を向けると、胸元に視線がいった。ネグリジェがはだけ、沙耶の微乳があらわになっていた。「お、おい、起きろ沙耶」 赤面した悠人が、慌てて沙耶の肩をゆする。「う……うーん……」「ひっ……さ、沙耶……」 甘い匂いに動揺する。 沙耶の小さな唇が、悠人の耳元をかすめた。「ゆう……と……」 耳元に沙耶の声。顔には沙耶の金髪が、足には細い足が絡みつく。 ガンガンガンガンッ! 突然頭の上に、金属音が鳴り響いた。慌てて見上げると、小鳥〈ことり〉がフライパンとお玉を持って立っていた。「悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、おはよう」 意地悪そうに、ニンマリと笑う。「いや、これはその……違うんだ小鳥」「最高のお目覚めだね、悠兄ちゃん」「……この状況でそれを言うか? 知ってたんなら助けてくれよ」「だってサーヤ、今日引越しだからね。最後の夜だし、悠兄ちゃんを貸してあげようと思って」「貸してってお前……それは自分の持ち物って前提じゃないか」「ほらサーヤ。そろそろ起きないと、引越し屋さん来ちゃうよ」「ん……」「おはようサーヤ。よく眠れた?」「おはようございます、小鳥&hellip
「これはまた……面妖な味だな」 菜々美〈ななみ〉の淹れたコーヒーを口にして、沙耶〈さや〉がつぶやく。「北條さん、コーヒー駄目だった?」「いえいえ、違うんですよ白河さん。このサハラ砂漠、インスタントコーヒーなるものを飲んだことがないんですよ。なにしろお嬢様らしいですから。胸は平民以下ですけどね、おほほほほほっ」「そう言うお前は、こういう平民飲料水で無駄な色香を育てた訳だな」「二人ともほんと、何がきっかけでも会話が弾むよね」 小鳥〈ことり〉が笑う。菜々美もつられて笑った。「みなさんほんと、楽しいですね」「あははっ……でも白河さん、想像してた通りの人ですね」「私ですか?」「はい。悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、よく白河さんの話をするんです。その時の悠兄ちゃん、いつも楽しそうで。だから白河さんに会えるの、すごく楽しみだったんです。やっと今日会えて、悠兄ちゃんがあんな顔をする理由、分かった気がしました」「どんな風に分かったのか、聞いてもいいですか?」「白河さん、きっとすっごく優しくて、気遣いの出来る人なんだと思います。そして多分、どんなことにも一生懸命なんだろうなって」「……すごく壮大な分析ね」「私も白河さんのお話は伺ってましたが、確かにその時の悠人〈ゆうと〉さん、優しい顔をしてました。私結構、嫉妬全開でしたよ」 弥生〈やよい〉が入ってくる。「しかも白河さん……なかなかどうして、結構なものをお持ちなようで」 弥生の視線に、菜々美が慌てて胸を隠した。「な、なんですか川嶋さん、その目怖いですよ」「いえいえ、男所帯の町工場に咲く一輪の花。それを想像するに私、次の作品のいい刺激になると言うかなんと言うか……とりあえず白河さん、その胸をば少々触らせてもらっても」 ガンッという音と共に、弥生が頭を抑える。沙耶のトレイ攻撃だった。「ぷっ……」 菜々美が再び吹き出した。「あははははははっ」
(あれから気まずくなるかなって思ってたけど、悠人〈ゆうと〉さん、思ったより自然に接してくれて……嬉しいような寂しいような…… あれ以来告白してないけど、それでも、悠人さんの一番近くにいるのは私だって思ってた。だから変な安心感があったんだけど……最近、悠人さんから女の子の話をよく聞くようになって……私、このままでいいのかな……) コーヒーを飲み干し、悠人が立ち上がる。「よし。じゃあもうひと踏ん張りするね」「じゃあ悠人さん、頑張ってくださいね」「菜々美〈ななみ〉ちゃんもありがとね。うまくいけば、あと2時間ぐらいで片がつくと思う。菜々美ちゃん、いつでも帰っていいからね」「私、今日は最後までいます。いさせてください」「いてくれるのは嬉しいんだけど。菜々美ちゃんは大丈夫なの?」「勿論です。悠人さん一人に大変な思いはさせられません。何もお手伝い出来ないけど、せめて完成するのを見届けさせてください」「分かった。ありがとう、菜々美ちゃん」「それに……こうして一緒に、二人きりでいられるのも久しぶりですから……」 そう言うと菜々美はカップを持ち、足早に事務所に戻っていった。 * * * 菜々美は悠人の椅子に座り、膝を抱えて考え込んでいた。(思わずあんなこと言っちゃった……今までずっと自然に振る舞ってたのに、なんであんなこと言っちゃったんだろう……焦ってるのかな、私……) 菜々美は悠人の変化に動揺していた。最近の悠人はこれまでよりも優しく、強く、誠実さを増しているように感じる。それはまるで、人生において目標を見つけたかのような変化だった。 明らかに悠人は変わった。そしてその原因が、最近悠人が口にする「小鳥〈ことり〉」によるものなのか……そのことを考えると、言いようのない不安に襲われた。(幼馴染の子供、小鳥ちゃんか……) 時計を見ると21時をまわっていた。「そうだ、うっかりしてた!」
飲み会が終わり。 菜々美〈ななみ〉は小雨の繁華街を、一人歩いていた。(悠人〈ゆうと〉さん、私のことをどう思ってるんだろう……やっぱり妹なのかな……) そんなことを考えながら信号が変わるのを待っていると、サラリーマン風の二人が近寄ってきた。「君、今一人?」「よかったら一緒にどう?」 明らかに酔っている二人が、菜々美の肩を抱いてきた。「あ、あの……やめてください」「いいじゃないの。どうせこうして声かけられるの、待ってたんでしょ」「楽しいからさ、一緒に飲みにいこうよ」 肩を抱く手に力を込める。 男に免疫のない菜々美の足が、がくがくと震えてきた。助けを求めたいが声も出ない。「あれ? ひょっとして震えてる? 大丈夫だよ、俺ら優しいから」 涙があふれてきた。「はいはいウブな真似はもういいから。行こ行こ」「……菜々美ちゃん?」 聞き覚えのある声がした。菜々美が顔を上げると、そこに悠人が立っていた。「ゆ……」 悠人の顔を見た瞬間、緊張感が一気に解け、その場にへなへなと座り込んでしまった。「うっ……」 口に手を当てると同時に、涙が頬を伝った。「ほんとに泣いちゃったよ」「てか、お前誰だよ」「何してるんだ……」「何だお前、喧嘩売るってか」「何してるんだっ!」 悠人が傘を投げ捨て、今にも飛び掛りそうな勢いで二人を睨みつける。 その勢いに、二人が一瞬後退る。しかしすぐに態勢を戻し、悠人に突っかかっていこうとした。「ふざけるなお前ら! 消えろ!」 悠人の大声に、通行人たちが足を止めて見物しだす。周りに人が集まってきたことに気付いた二人は、「けっ……格好つけてるんじゃねぇぞ!」 そう捨て台詞を残し、その場から去っていった。「……」 通行人たちも立